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2009年02月22日

死するまでに。


人が人で居られる時間はとても短く。
人が人で居られない時間はとても長い。
当たり前の世界。当たり前の空気。当たり前の環境。
それらが崩壊し始めたら人はサイクルという名の
秩序をひとつ失うことになる。

その代価が大きければ大きいほど人で居られる時間が短くなり
小さければ小さいだけ。人でいられる時間が長くもなる。
ただ。小さく長く生きてみたいと思うか
大きく短く生きてみたいと思うかは個人の自由であり
才能に特化した者が必ずしも短い人生ではないという事。

この世界はらせん状にいくつもの因果律が回り渦をなして形成している。
よって。どの因果律に引き寄せられる事を受諾するかだけで
人の一生。人生。その先。後世までも支配される事になる。
故に因果律からは逃げられないとされてきたが
本来私達はターニングポイントと表現しながら
実は歩みたい因果律を無意識。または意識的に選んでいるのである。

そこに気付いた時、自分の未来に幸福のみを望むもの。
また自分の未来に不幸を多く望むものに分かれてくるが。
これはまた異なったベクトルの作用によるものであり
因果律は必ずしもひとつの定められた絶対的な軸線ではないという事。
運も因果律のひとつ。運を使えば使い切ると思い込んで生きるものと
運は無限に存在する因果律にからみついていると判断するものがいる。
私は後者である。故に幸運な事が多く続くと感じている。

死するまでにその人が何を誰に残したかが重要であり。
思い出を受け止めてくれる存在が必要不可欠な事から
人は一人では歩けないと記されていると解釈した時。
世界を敵に回しても一人の人を守ろうとする行為は
無数の因果律的に不可能である。

世界を敵に回すという事は絡み続ける絶対的な運命媒体を
すべて回避し続ける事を意味し。それは一人ですら困難な事と
されており。二人で協力したとしても乗り越える事は出来ない壁になる。

愛の形を過剰に評価した小説は多種あるが。
ベクトルを正しく認識して記載された書物は少ない。
故に幕末末期の諸説は貴重とされている。

私は死するまでに。どれだけのものを残せるのだろうかと
ふいに己と自問することがある。
答えはいつも複数あり。どれが正解でどれが不正解ともいいがたい。
これが自然な答えと言うものなのだろうと。
今ではそう思い生きることになるだろう。 By.ミラミスコ

死するまでに。


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Posted by バズちゃん at 01:11 │まったり日常日記